本尊由緒

▼ご本尊の由緒について▼

(ご本尊と背面裏書)
(由緒書と拡大図)

萬燈山 恵光寺のご本尊・阿弥陀如来像は、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の僧侶であった前住職の八田憲英師のご縁によりまして、西本願寺から恵光寺へと移転されました。
恵光寺に移転される以前は、その詳細は分かりませんが、各地を転々としていたと聞いております。
そんな折、ふとした事からご本尊の元々の所在を探っていこうという機運が高まり、ご本尊に関連する二つの由緒書を元に調査する事となりました。

そして、おおよその調査結果が出ましたので、以下にご説明申し上げます。
まず、一つ目の由緒書は、ご本尊本体の背面に書かれた裏書です。
画像が分かりにくいので表記しますと、「金福寺門徒照蓮寺下丹波國氷上郡竹田邑惣道場」とあります。元々は、丹波国氷上郡竹田村(現:兵庫県丹波市市島町上竹田)にあった様です。
氷上郡一帯に、本願寺教団の中興の祖である蓮如上人よりもずっと以前、存覚上人擁する仏光寺教団(現:真宗仏光寺派)の布教活動によって、浄土真宗の教えが伝わっておりました。
東西分派以降、西本願寺の中本山となった「四ヶ之本寺」の金福寺(旧:京都市西六条天使通木材屋/現:京都府船井郡京丹波町新水戸イカガ谷に移転 開創:1597年)の末寺である照蓮寺(旧:丹波国氷上郡七日市村/現:兵庫県丹波市春日町七日市 開創:1645年)を上寺として、竹田村で惣道場が開かれた様です。

【本末関係】 西本願寺→金福寺→照蓮寺→竹田村惣道場)
惣道場とは、特定の有力者が邸内で管理する道場(自庵)ではなく、村落全体で管理する道場を意味します。

次に、二つ目の由緒書は、ご本尊に付属していた草書体で書かれた巻物です。
こちらには、ご本尊本体の裏書とは異なる内容が記載されております。
難しい読み方なので表記しますと、「木佛尊像 釋文如(花押の印) 寛政六甲寅年三月晦日 本照寺門徒明照寺下丹波國氷上郡上竹田村惣道場 明専寺物」とあります。ご本尊本体の裏書と異なっている箇所を、以下に表記します。

①竹田村惣道場の本末関係が金福寺末照蓮寺下から本照寺末明照寺下へと変わり、木佛が明専寺物となっている事
【本末関係】 西本願寺本照寺明照寺→竹田村惣道場・明専寺)

②竹田村惣道場の所在が竹田村でなく上竹田村であった事


しかしながら、この寛政六年(1794年)三月三十日付けの由緒書には、西本願寺18世宗主の文如上人[在位:寛政元年(1789年)~寛政11年(1799年)]の花押(署名捺印)がありますので、竹田村惣道場が西本願寺教団の所属である事を証明する正式な文書となります。
以下、裏書と巻物との違いについて考察を試みました。

①ご本尊に直接裏書されている様に、当初、竹田村惣道は金福寺末照蓮寺下に位置づけられていたと思われます。
しかし、その時はまだ金福寺末照蓮寺下の惣道場ではあるものの、西本願寺教団の正式な所属寺院ではなかったという事が、この由緒書自体が下付された事からも見て取れます。
それでは、一体何故、竹田村惣道場の本末関係が変わると共に、本山・西本願寺からの正式な認可証が下付されているのか考えてみますと、新たに竹田村惣道場の上寺となった明照寺、木佛の主である明専寺に答えがあると思われます。まず、明照寺(旧:丹波国氷上郡池尾村/現:兵庫県丹波市春日町池尾 開創:1615年)は、本願寺7世宗主の存如上人によって建てられた「富田御坊」の本照寺(旧:摂津国嶋上郡富田/現:大阪府高槻市富田町 開創:1427年)の末寺であり、江戸時代以降は氷上郡における西本願寺教団の触頭(幕府および各藩の寺社奉行の下で、本山及び末寺への上申下達の仲介を行い、また一定の統制にあたった寺院)でもありました。
続いて、明専寺(旧:丹波国氷上郡矢代村/現:兵庫県丹波市市島町矢代 開創:1596年&1625年)は、文禄五・慶長元年(1596年)に開創された道場、寛永二年(1625年)に開創された道場の二つが合併されて出来たお寺で、竹田村惣道場があったと考えられる場所(現在の市島町上竹田か?)に隣接しております。
それを踏まえると、本山・西本願寺は、金福寺末照蓮寺下であった竹田村惣道場を教団の正式な所属寺院とするにあたり、触頭である明照寺を新たな上寺とし、さらに隣接する明専寺に惣道場を管理させたのではないでしょうか。
その理由として、明照寺は、先の上寺の照蓮寺よりも竹田村に近い場所にあります。
また、触頭として任命されている事からも分かる様に、明照寺は本山と緊密な関係にあります。
明専寺に至っては、竹田村惣道場とほぼ同じ場所に位置しております。
総合的に判断して、竹田村惣道場の本末関係を金福寺末照蓮寺下から本照寺末明照寺下へと変更した上で、教団の認可証である由緒書が下付されたのはないでしょうか。

②竹田村惣道場は何処にあるのでしょうか。
明治二十二年(1889年)の市区町村合併以前の竹田村は、氷上郡上竹田村、上竹田島村、中竹田村、下竹田村の四つに分かれておりました。
合併後、上竹田村は他五村(上竹田島村、矢代村、徳尾村、鴨坂上村、鴨坂下村)と合わさって前山村に、残す中竹田村と下竹田村が合わさって竹田村になりました。
続いて、昭和三十年(1955年)の市区町村合併によって、市島町(前山村、竹田村、吉見村、鴨庄村、美和村)が発足します。
そこから推測するに、竹田村惣道場が金福寺末照蓮寺下であった時代は、まだ小さな規模の村であったと考えられます。
時代を経て、本村が枝分かれしていった結果、現在の様な竹田川流域に広がる村々になったのでしょう。
そして、竹田村惣道場が金福寺末照蓮寺下であった時の竹田村は何処か考えると、1889年の市区町村合併以前にあった上竹田村ではないでしょうか。
明専寺に近いという事もありますが、村が川に沿って上中下に分かれている事からも、上流域から下流域へと村が枝分かれしていったのではないかと想像されます。
また、寛政六年(1794年)の裏書の下付から分かる様に、本末関係が変わっても、何らかの天変地異がなければ惣道場自体の所在は変わりません。
従って、上竹田村が元々の竹田村だったのではないでしょうか。

結果は以上となりますが、この二つの由緒書が示す様に、このご本尊には長く深い歴史がありますが、それは即ち、ご本尊を前に真宗の教えに出会って来た人々の歴史そのものでもあります。
時代時代において、飛び上りたいほどの喜びであったり、目を覆いたくなる様な悲しさなどが数多くあった事でしょう。
そういった人々のいのちの歴史を見つめ、背負いながら、歩まれてきたご本尊が、遠き宿縁を経て、今こうして恵光寺にお越し下さっております。
それはつまり、この恵光寺も、ご本尊が背負い続けてきたいのちの歴史の一端を荷うべくして開かれた道場であるという事でしょう。

なんまんだぶ、なんまんだぶ。